LINKIN PARKと「セカイ系」

LINKIN PARKの3rd『Minutes To Midnight』を買いました。事前にシングル"What I've Done"を聴いてPVも観ていたので、ある程度「ラップ・ロックという枠を飛び越えた作風なんだろうな」と予想していましたが、実際にはヘヴィ・ロックという枠からも抜けてしまいそうな音で、これは賛否が分かれそうです。まあ、音の変化については多くの人が言及すると思うので、ここでは割愛します。


昨日今日と新幹線の中で聴いた感想としては、「LINKIN PARKセカイ系だなあ」と。この一言に尽きます。これだけメジャーで言及も多いバンドですし、本人達が日本のアニメが好きだと公言しては各種のアートワークに引用しているので、この件についてはもっと巷で言及があると思ったのですが、僕が「LINKIN PARK セカイ系」で検索しても特筆すべき記事がヒットしなかったので、敢えて僕の浅薄な知識でここに残しておきます。間違った記述などは適宜ツッコミを入れてください。


Wikipedia内「セカイ系」の項目によると、「セカイ系」とは下記のように定義されるアニメ・小説・マンガなどを指す言葉であるらしい。

セカイ系の「セカイ」という言葉は、世界を意味する。
セカイ系の特徴は、主人公もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を本来その任にあたるべき国家や国際機構のようなシステムに代わって大きく左右してしまう、という点である。
(中略)
これらの主人公らの人間関係・内面的葛藤・行動等が社会を経ずに世界に直接影響する一連の作品群が「セカイ系」と呼ばれるようになった。

セカイ系の作品では、主人公が非常に強いもしくは特殊な能力を持った10代の少年少女であることが多い。
そしてその力は世界の命運を左右するほどの力である。作中ではなんらかの事情により全世界規模の危機的状況にあり世界の運命は主人公に握られている。


こうした記述のあと、親切にもWikipediaでは「セカイ系」に分類される作品群が挙げられているのですが、生憎僕は前述したようにアニメに疎い人間なので、その作品群の中ではスピリッツに連載されていた『最終兵器彼女』と、会社の同僚に半ば無理矢理鑑賞させられた『新世紀エヴァンゲリオン』ぐらいしか内容を知りません。一応この頼りない2つの知識を持って話を先に進めます。


LINKIN PARKは登場した頃から非常にサブカルチャー寄りの文系ヘヴィ・ロックでした。当時ヘヴィ・ロックといえば、プロレスの入場曲に採用されるような筋肉ムキム全身タトゥーの体育会系か、演者の個人的体験を劇的に歌詞化したトラウマ・ロックが主流だったと記憶しています。そんな中で、比較的裕福な家庭で育って然程トラウマを抱えているようにも見えない、インタビューでも真面目な受け答えに終始するLINKIN PARKの存在には文学系青年のイメージが付き纏っていましたし、それ故に、精密に構築された楽曲群の中で突然感情が迸るように挿入されるチェスターの叫び声は異彩を放ち、リスナーに強い印象を残しました。


僕は当時からLINKIN PARKに「なんか日本のアニメっぽいなあ」という感想を抱いてきました。一方で雨後の筍のように次々と登場するLINKIN PARKフォロワーのラップ・ロックは、ただ型をなぞっただけで、いかにも肉体的なアメコミ・ロックばかりだったわけですが、アニメに造詣が深くない為、それを上手く言語化できずに今日に至ってしまいました。


「ラップ・ロック」という単純な言葉で語られる事の多いLINKIN PARKですが、その音楽的な特徴は「ロックとラップの融合」などという在りがちなミクスチャーではなく、どちらかと云えばラップを無機質に使って、人の声までも緻密な楽曲の彩りに変えてしまい、其処に全身から絞り出したような、過剰なまでのスクリームを乗せる、という「静と動の対比」にこそある。と思います。云わば、感情の放出に向けて世界を整える作業。構築の美と破壊の美をミックスして、このミックスした結果に一種の様式美というべき型を作り上げてしまったこと。ここにLINKIN PARKLINKIN PARKを真似しながら普通のアメコミバンドに堕してしまっているバンドの大きな差があるんじゃないでしょうか。


要するに、クールでクレバーな癖に感情表現が時として過剰。これは音だけでなく、歌詞の面でも言えることです。恋愛の歌詞などを殆ど書かないのですが、歌詞には自分と誰かの関係性が色濃く描かれていて、その全てが「なぜその出発点からそこまで飛躍するのか」という程、終末感たっぷりの結末を迎える。しかし政治的なメッセージは皆無。どこまでも歌詞世界は自分から半径5m以内なのに、対象は世界。


これはLINKIN PARK以前に登場したトラウマ・ロック系の歌詞世界の型でもあるわけですが、彼らの場合、其処から上手く「トラウマ」といった個人の経験を抜いて誰もがサビで一緒に鬱屈を解き放つ拳を振り上げられるようにしたところが秀逸でした。これならば父親にレイプされた経験の無い文系ロック少年でも、なんの抵抗も無く自身の鬱屈を過剰に放出することができる。なんか揶揄したような書き方になってますけど、僕自身なんのトラウマもないごく普通の中流家庭に育ちましたので、見事に彼らの対象内にいるわけです。日頃ヘヴィ・ロックばかり聴いて「LINKIN PARKはヌルい」などと嘯いてみても、やっぱり「彼女と一緒に聴ける」「BGMとして機能する」ヘヴィ・ロックの登場は大きかった。あれこれマーケット分析する以前に、日頃僕が部屋でかけるBGMに眉を顰めてばかりだった彼女が「この人たちのライブ行きたい」と言った瞬間は限りなくリアルでした。こりゃあ売れるわ、と。


閑話休題。要するに自分と誰か特定の他者との関係性に過剰なまでに「世界」「終末」という概念が持ち込まれている歌詞が、セカイ系っぽいんじゃないの、ということが言いたいんだと思います。僕の浅薄な知識で。


今作からの1stシングル"What I've Done"では、そのセカイ系的歌詞世界を存分に味わうことができます。ちょっと訳詞を引用してみましょう。輸入盤買ったので、日本語訳が僕の適当訳で申し訳ない。

この別れに流される曲なんてない
俺が自ら後悔を招いたんだ
だから慈悲を そして流し去ってくれ


俺がやってしまったこと
俺は自分自身と向き合う 今の俺を抹消するために


終わりにしてくれ
君が思い描いた俺の像を
俺がこの義務を放棄する間に 不確かなその手で
だから慈悲を そして流し去ってくれ


俺がやってしまったこと
俺は自分自身と向き合う 今の俺を抹消するために


やってしまったことのために
俺は再び始める
だからどんな苦痛が訪れても それは今日で終わりなんだ
俺は俺のしたことを許せるだろう


どうよ、この自意識過剰。


PVは演奏するLINKIN PARKの面々と交互に飢饉に苦しんでいると思しき人々や爆撃シーン、氷山が崩れる場面、暴動、KKK、戦争、公害など終末感溢れる映像が挿入され、部分的に新生児や草が芽吹く場面などを加えて「終末と再生」と強く印象付ける映像になっています。ある意味政治的な、平和を訴えるメッセージ映像と取れなくもないですが、乗っかっている歌詞は「What I've Done(俺のやったこと)」ですから、額面通りに受け取れば「俺のやったことで世界が終末を迎えても俺は自分を消して自分と向き合う。そして苦痛は今日で終わり。俺は俺のしたことを許せるだろう」という完全に「自分と世界という関係性の抹消と再構築」の歌です。


こうゆうの、セカイ系って言うんじゃないんですかね。少なくとも僕の上っ面の知識で見る限りだと、「主人公もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を本来その任にあたるべき国家や国際機構のようなシステムに代わって大きく左右してしまう」「精神世界や感情と世界とが直結している設定を特徴とするため、登場人物のトラウマが強く全面に押し出される事が多い。個人がそのトラウマを克服出来るかどうかがそのまま世界を救えるかどうかに繋がることも多い」というWikipediaの解説そのまんまに見えるんですが。


僕が単純に興味を持って、自分がもっと深く知りたい、という動機でこのエントリを書いていますので、何かおかしな点があれば遠慮なく指摘してやってください。個人的には「なんでこの人たちは世界と個人が直結した終末感たっぷりの歌詞を書くんだろう」とずっと思ってたので、もしこれが日本のアニメの影響だとしたら、それはそれで凄く面白いなという気がします。インタビューを読んでる限りでは、間違いなくエヴァンゲリオンとか観てるわけでしょ、彼らは。音楽性が大幅に変わっても、彼らに抱く印象が然程変化しないのは、この辺りの世界観が前作から余りブレていないからじゃないか、と個人的には思いました。


歌詞の話をかなり書いたので、今回は日本盤へのリンクを付けておきます。